2008年10月27日月曜日

宗教と信仰

今日はま宗教についてかなり批判的な話を書いてみたいと思います。(えっ?無駄ですかそうですか放っといてください)

信仰を持っている方は読まない方がいいかもしれません。

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かつてはこんなオレも人生に迷い、人間以上のモノに救いを求め、様々なモノを仰いではみた。

特にキリスト教は、熱心に教会に通ったこともあるし、聖書も数えきれないほどを何度となく読んだ。

その他に様々な宗教の本を読んだ。仏教に傾倒し座禅を組んだりしたこともある。

切実に心の平穏を追い求めていたし、より「よい人間」になりたいと強く願った。

そうして追い求めた結果が得られたオレなりの価値観もあるんだけど、今日はそれは置いておいて宗教について感じたことをつらつらと書いてみたい。

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「宗教」ってなんだろう?

宗教というのは、「死」や「病」などの人間の根源的な恐怖と不安を刺激した上で、神の名の下にと称して「ホッとする感じ」、「救われる感じ」を売っているサービス業である。

そしてその「ホッとする感じ」、「救われる感じ」を体験する手段として様々な儀式が用意されている。サービルを受けるには「寄付」や「無償労働」で手数料を支払うことが多い。

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では「信仰」とはなんなのか?

信仰とは論理思考を棄て、盲目的にある特定の「教え」を信じることである。

分析したり解析したり論理思考をしてはいけないのだ。

たとえば子供を溺愛する親が「私はうちの子を信じるわ!」というとき、そこに論理的根拠は存在しない。

「キリストを信じる」のもでも「仏さまを信じる」のも同じなのだ。論理的な思考を放棄し、ひたすら信じる行為が信仰なのである。

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ここまではサービス提供者と享受者の関係なのでまったく問題ない。

人間は必ずしも論理的な生き物ではないし、何かを信じて救われるならそれでいい。

ところが..... である。

信仰を持つことで「他の人は滅びの道歩んでいて可哀想だ」などとおかしな優越感を持っていたりする人が少なからずいるのである。

そしてその価値観を人に押し付けたり、票田として機能して政治力を持って国政に影響を及ぼしたりするのである。

狂信のあまり犯罪を犯すケースも少なくない。

宗教戦争は言わずもがな。

実に始末に負えない。

これなら「オレは金持ちだぜ。スゲエだろ!」とふんぞり返ってポルシェでも乗っている成金のほうが100倍健全だろう。拝金主義だが、そこで完結してるしそれなりに滑稽だしでかわいいもんである。


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では「信じる」という行為は間違った行為なのだろうか?

そうは思わない。

例えば夫婦が信じ合わなかったら結婚生活は成り立たないし、子供を信じなかったら子育てなんてできない。部下や上司が一生懸命やってくれると信じなかれば馬鹿馬鹿しくて仕事なんかしてられないのだ。

ただ盲目的にどっかの誰かが発明した教義を信じるというのはどうなんだろうか?盲目的な「信仰」ではなくて、あくまで論理思考を放棄せずに客観視をするという努力を継続した上で、人間には分からないことには「分かりません」という謙虚さが必要なのではないだろうか?

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