2014年2月26日水曜日

横からの目線

 ずっと前から「褒めて育てよ」ってなんだかおかしいと思っていた。

 4年前にこのブログで、「褒める」っていう行為は、「褒める」ことで相手を操作しているのに過ぎない、というようなを書いた。それに「褒められる」ことを目的に振る舞うってなんだか卑しくないか? というようなも。

 「叱る」という行為も、「褒める」がひっくり返っただけのことで、実は同じことなのだ。このことについても、以前書いたことがある。「褒める/叱る」という行為は、どっちがすぐれているという訳でもなく、コインの裏表なのだ。要するに褒めてコントロールするか、叱ってコントロールするかというだけのお話。つまりはアメとムチなのだ。どちらとも何かがおかしい。

 そして、おかしいと思っていたのに、どうしていい分からずなかなかヤメられなかった。

目線の高さはどこなのか?
 では何がおかしいんだろうか? それは、目線の高さがおかしいのだ。褒める/叱るという行為は、自分が相手よりも偉いとか、優れていると思えるからこそできるのだ。要するに上から目線なのだ。そしてそんなアプローチが、思春期の子供たちに響くはずもない。いや、思春期だけに限らない。大人にも子供にも響かないのだ。褒めるのも叱るのも、ただの条件付けなのだから。

 友達を褒めて誘導するだろうか? 叱って誘導するだろうか? するわけがない。友達は対等な関係であって、誘導なんて失礼すぎてできないからだ。忠告はするだろうし、嫌な思いをさせられたら怒りを露わににするだろう。でもそれは叱るのとは違う。
 友達を褒めるときには、心から感心した時だけだろう。「お前。すげえなあ〜〜!」って。そこにあるのは純粋な感動であり、尊敬の気持ちだ。子供を褒めて伸ばそうとするような、誘導的なものとは全く質が異なる。そして心に響くのはそういう対等の目線なんだ。

上から目線じゃなくて、横から目線を!
 子供や部下に接するときに、必要なのは上から目線なんかじゃなくて、友達に接する時のような「横から目線」だ。ちょっと視点を変えれば、そんな視点で子供や若者や部下に注ぐことは別に難しいことでもないはずだ。

 子供と大人の本質的な違いは、大人の方が早く生まれた、という部分にしかない。そして早く生まれたからといって、別に大人の方が偉いわけではないのだ。そりゃ少しは経験値が高いだろう。でも経験値が高いから、人間的に偉いわけではない。同じ山を登る相手が、10時間早く出発したからといって、自分より偉い訳ではない。そいつは早く出発した分、どこが大変か、ペース配分はどうしたらいいか、少し先に知見を得るだろう。でもそれだけのことだ。

 4年前にブログを書いたときに出なかった答えがようやく出た。
 横から目線で接したとき、褒めるのも叱るのも、まったく質の違ったものとなる。それは誘導なんかではなくて、忠告になるし、賞賛になるし、対話になる。

 自分が下山するときに、これから登る人とすれ違ったら上から目線で接するだろうか? するわけがない。怪我しないように気をつけて、楽しんでこいよ、って思うだけだ。自分の経験をシェアしてあげる。できることはそれだけしかない。それはその人の登山であって、俺の登山ではない。その人はその人の好きなように登ったらいい。

 そんな当たり前のことに気がつくのに、20年ぐらいかかっちまった。子供は成人ぎりぎり。でもまあ気がつかないよりはよかったかな?

===========

そんなことを考えさせてくれたのが岸見 一郎 , 古賀 史健著の「嫌われる勇気」です。ぜひ手に取ってみてください。おすすめです。この本については、また違う角度から書いてみたいと思います。





 

0 件のコメント: