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Brighture English Academy 代表。趣味はウクレレとかハイキングとかDIYとか旅行などなど。在米20年。シリコンバレーに住みつつ、日本とアメリカとフィリピンで会社経営しています。最近は英語教育がライフワークになりつつある。

2012年9月10日月曜日

引きこもり予備軍の糞袋くんへ(Pt .2)


Pt .1 はこちら

そんな訳で16歳の夏休み、オレはアメリカに留学してしまった。

行き先はオハイオ州という中西部の田舎だった。保守的な土地柄で、共和党の支持者が多く、オレが通った高校には広島に原爆を落とした人の孫が通っていた。日本のことなんてだれも知らず、「日本に侍はいるの?」とか「日本にもテレビはあるの?」などとトンチンカンなことをよく聞かれたっけ。

オレを置いてくれた家は、もう成人して家を出た息子から、まだ小学生の末っ子まで4人も子供がいる、敬虔なクリスチャンの一家だった。お金のない家で家計は常に汲々としていた。よく異国からやってきたオレを引き受けてくれたと思う。

英語なんてまったく出来なかった。

どのくらい出来なかったかと言うと、例えば"Behind"(後ろ)っていう単語さえ知らなかった。現在完了とかもさっぱり分からなかった。英語の実力は中2ぐらいでストップしていたと思う。

この程度で日本から逃げ出したい一心でアメリカに住んじゃうんだから、まったくバカとしか言いようがない。

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アメリカに行ったからと言って急に何が変わる訳じゃなかった。

相変わらずバカで甘ったれた根性なしで糞袋のままだった。

いや、むしろ「糞袋化」がさらに進んだかもしれなかった。

何しろ言葉が何も喋れないから、誰とも意思の疎通を計れない。毎日ただただ学校と家を往復した。テレビもラジオも授業の内容も、周りが喋っていることも何ひとつ分からなかった。

「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」

毎日そう思ってた。自分で望んできたのに。

80日以内に日本に戻れば、落第せずに復学できる。

そんなことばかり考えてた。そこがイヤで逃げてきたのに。

わからないなりに、英語を理解しようとし続けるからだろうか?毎晩7時には睡魔に襲われ、赤ん坊のように11時間くらい眠っていた。一日中無言で11時間睡眠。オレをホストした家族は不気味だったんじゃないかと思う。

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日本いた時には親や教師との関わりが煩わしくて、自分に都合の悪い話には耳を貸さず、むやみやたらと反発してた。

「引きこもり」も同じなんじゃないだろうか?自分に都合がいい情報だけを取捨選択して生きている。

親が泣くようなことばかりしてた。

言葉ではまったく敵わない大人たちへの「親の言うなりには生きないぞ!」という、自分なりのアピールだったのかな…… と思う時もある。

しかしそれを親の庇護の元でやってたんだから、まったく「甘ったれの糞袋」だった。そんなに親がイヤなら家出でもすればいいのに。

でも異国の地でこうして「孤独」になってみて、自分がナンボのモノなのか、初めて考えさせられた。

自分の甘ちゃんぶりが身に沁みた。

言い訳もハッタリも屁理屈も何も言えない状況になって、

「自分の力で、裸で勝負しなくちゃ何も拓けない」

って初めて気が付いたような気がした。

当時はこんなふうに冷静に分析してた訳じゃない。

毎日が自分なりにサバイバルだった。

この素敵な家庭に嫌われないようにと、買い物やら薪割りやら率先して手伝った。

小学生の弟から少しずつ英語を憶えた。

完全なバカではないことを証明しようと、あまり英語を必要としない数学だけは一生懸命やった。

陸上部に入った。

1年間があっという間に過ぎて、少しばかり英語が喋れるようになった。

ホストファミリーとは本当に家族のように打ち解けた。

友達も出来、彼らとは今でも付き合いが続いている。

アメリカでもいろんな人の無償の愛を一方的に、無自覚に受けながら1年間を過ごした。

無能でバカだったオレにも居場所が出来た。

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そしていよいよ帰国の日。

空港で家族と別れて歩き出したら、どっと涙が溢れてきた。

前が見えないほど涙が溢れる、という体験を生まれて初めてした。

ありがとう。

搭乗口に寄りかかるようにしながら、やっと飛行機に乗り込んだ。

この世と別れる時にも、こんな気持ちになるんだろうか。

さようなら。アメリカ。さようならオハイオ。
まるで当然のことのようにオレをサポートしてくれたホストファミリー、学校の先生、そして異国の友人たち。さようなら。

あなたたちのことは絶対に忘れない。





つづく







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