さて昨日書いた佐々木俊尚氏の『「当事者」の時代』の書評の後編です。
佐々木氏はこの書籍を通して日本の病巣を見事にえぐり出したように思います。
私が本書を読んで一番強く感じたのは、「人は皆誰でも自分は正しくて普通だと思いたいし、責任なんか背負いたくはない」ってことです。
例えばイジメをする中学生もその親も、イジめられる方が悪いとか、環境が悪いと言ってみたりね。親も先生も教育委員会も問題を直視すると自分が問題の「当事者」になってしまうから、みんな言い訳に必死です。
新聞社は自分たちの言論に責任を取りたくないから、自分たちの思い描くストーリーにフィットするマイノリティやら市民運動家に「憑依」し、彼らの声を自分たちに都合良く加工して紙面に載せ、あとは知らん顔です。
日本のメーカーがドンドンとダメになってきていますが、これも同様の構図があるように思います。例えば誰から新しい製品のコンセプトを思いついたとしましょう。でも自分が当事者になって決定を下し、そのアイデアを製品化をして売れなかったら自分が責任の「当事者」になってしまいます。そこで他社と似たり寄ったりの製品を創り、それなりに忙しく右往左往しているとそのうちに時が流れてくれて、で、銘々がそれなりにヒーロー気取りや苦労人気取りもできて、めでたしめでたしです。原発事故の東電や原子力安全員会、あるいは経産省などをみても、同じような「当事者」になることを避けるメンタリティが垣間見えます。
自分が「当事者」になるというのは凄まじいほどに辛いものです。アップルでたかだか4、50人ぐらいの部署の改革をしたことがありますが、1から10まで自分の頭で考えて改革をしていくというのは、失敗した時の恐怖に足がすくみますし、日々批判やプレッシャーに晒され、なかなか辛いものです。それに雇われ人なんですから敢えてそんな苦労を買って出なくても給与はそこそも貰えるんです。なかなか正気ではできないような部分さえあります。
自分が「当事者」となって新しいことをやったりマトモな発言をしたりすると、恐ろしいほどにイジめられたり、足を引っ張られたりしますが、あれはある種の「後ろめたさ」の反転なのかな、と思いました。どの人も本当は各々が「当事者」にならなければならないと、どこかで気付いています。でも堂々と「当事者」になる人が出現すると、各々が「当事者」になることから逃げ回っている自分のダメさ加減を直視しなければならなくなるため、それを避けるために猛烈に足を引っ張るのではないでしょうか?
でも自営業者なら自分が「当事者」なんて当たり前の話です。足を引っ張られるようなこともありません。自分以外は誰のせいにも出来ないのです。会社勤めの頃はもしも改革に失敗しても「足を引っ張ったヤツらのせい」、「理解のない上司のせい」などなど、容易に人のせいにすることができました。そんなことは実際はしませんでしたが、やろうと思えばやれる環境がありましたし、内心では失敗の言い訳を考えていました。ですので実は甘ったれた環境でしたね。アップル時代の自分を美化していた部分にも気付きました。これからもずっと「当事者」として生きていこう、傍観者にはなるまい、と決意を新たにしました。
また佐々木氏の文章には本当に脱帽でした。今年初めて自分が本を出してみて、なか見が濃い本を出すことが如何に困難か痛感しました。ですので、こんなにも「なか見」の濃い本が書けるのか…という素直な感動がありました。プロのジャーナリストと自分を比べること自体おこがましい話ですが、こんな良書に巡り会えて本当に良かったです。
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