「下流の宴」という林真理子の小説を読んでみました。それなりの教育を受け、平穏な家庭を営む主婦由美子の悩みは、20歳になる息子が中卒で定職をもたないこと。下流に甘んじる若者の心理、そうした子を持つ親の葛藤などを描いた力作で、グイグイと読まされてしまいました。
色々と考えさせられることが多かった一冊ですが、特に身につまされたのが親子間のコミュニケーションの難しさです。
自分も思春期を迎えた頃、親の言うことは本当に鼻についたものです。母親は小言を際限なく浴びせ、父親は息子の状況なんて対して把握していないくせに、高圧的に罵声を浴びせたり、あるいは暴力で息子をねじ伏せようとしたり。
そして繰り返される数々の脅し。
「ちゃんとした学校を出ていないとロクな会社に入れないよ」
「ちゃんとした仕事に就かないと家を買ったり、クルマを買ったりできないよ」
「学歴がないと一生人からバカにされるんだ」
などなど。
こうした「脅迫」は本当に嫌いでした。
そして「小言攻撃」や「罵声攻撃」、あるいは「脅迫攻撃」が通じないとなると、次は「猫なで声」の出番です。
「あなた自身の将来なんだから自分で考えなさい」「自分のやりたいことをやったらいいわ」
などなど。
「下流の宴」の主人公もまた息子に:
「翔ちゃんの人生だからゆっくりでいいのよ。ゆっくりと自分の好きなことを見つければいいのよ」
などと言うのです。ところが親は腹の中ではそんなことちっとも思っちゃいません。それなりに大学に進学し、それなりのところに就職して欲しい、と切に願っているのです。
こんなことを偉そうに書く自分も、結局自分の親が通ったのと同じ道を通り、子供に向かって小言や罵声、あるいは猫なで声を出しました。そして何も伝わらず……。そして考えずにはいられませんでした。
なぜ親子間のコミュニケーションはこんなにも難しいのだろうか?
この小説は、そんな葛藤を久しぶりに思い出させてくれる一冊でした。
以心伝心
家族という関係はとにかく「濃い」関係です。
よく「阿吽の呼吸」、「以心伝心」などと言いますが、それが当たり前なのが「家族」とう関係です。だから親が猫なで声を出そうが怒鳴り声をあげようが、子どもたちは親の言葉からではなく、身振り手振りや表情などの非言語のコミュニケーションからメッセージを汲み取ってしまいます。親もまた、子供のふてくされた態度や挑戦的な態度を感じ取り、敏感に反応してしまいます。
そうやってお互いに自分自身の嫌いな部分を見いだし、反発し合ってしまう。親子という関係の難しさは、こうした鏡のような関係にあるのではないかと思うのです。
息子や娘が反撃の牙を剝き始めると、痛いところを突いてくるのはそのためでしょう。学歴や世間体を気にする自分。出世したほうが偉いと思い、職業に貴賤があるとどこかで思っている自分の価値観。そしてそうした一丁前の生意気な指摘にいらだち、必要以上に罵声や説教を浴びせ、それがまた反発を生み……と悪循環にハマっていくのです。
一体なにを伝えたいのか?
親というのはとにかく子供に自分が得た教訓を伝えたくなってしまうのではないでしょうか?
特に自分が犯した失敗は子供に犯して欲しくないと思うものでしょうし、だからこそ少しでも安全なレールに乗せたくなってしまい、口出しをしたくなってしまいます。特に思春期に突入し、色々とおバカなことをやりだす子ども達を黙ってみてるのは本当に難しいものです。
そこでなにやらメッセージを伝えたくなる。心に響く言葉を。そんなことを思う父親は少なくないないだろうし、母親はどうしても小言爆裂。
でも問題は2つあります。
- 自分には語るほどの言葉や資格があるのか?
- 子供はメッセージなんて聞きたいのか?
ってことです。
またメッセージを伝えるにせよ、本当に伝えたいことを喋っているのだろうか?という自問自答も必要な気がします。つまらない処世術を喋ったって、本気で自分というものを探し始めた思春期まっただ中の息子や娘に響くはずもないような気がします。
自分が思春期の頃を振り返ってみると、親に限らずですが、欲しかったのは色眼鏡を掛けずに話を聞いてくれる大人だったように思うんです。あるいは自分の価値観をあたかも普遍の真理であるかのように押し付けない大人。言っていることとやっていることが一致している大人。
自分は一体そういう親に、大人になれたのだろうか?
そう考えた時に、口を塞がざるを得ない気がします。
言葉ではないメッセージ
結局子供にメッセージを伝えたかったら、自分の背中を見せるしかないのではないか?と思うんです。
どうせ何かいったって反発されるだけです。
それよりも「人の悪口を言うな」というのなら自分が言ってはいけませんし、「勉強しろ」というのなら、夜youtubeなんて見てないで、専門書の一冊も読めばいいんです。「人生を楽しめ」というのなら疲れた顔をして足を引きずって会社に行くのではなく、楽しげに人生を謳歌すればいい。
子供にいい聞かせたいことの半分も出来てない自分を知ることで、まあ「ガミガミ言うのはヤメとくか」って気にもなれると思うんです。
私は子供に「勉強しろ!」というの、子供が高校生になったらようやくストップできました。
自分が言っていること/考えていることは本当に大切なことなのか、あるいは矛盾はないのか自問自答してみる必要もあるのではないでしょうか?
「職業に貴賤はない」といいながら「いい会社に入れ」と言っていないか?
「努力すれば報われる」と言いながら、実は「才能がない奴は無理」と思っていないか?
「ウソはいけない」と言いながら、「ウソも方便」と思っていないか?
言葉では伝わらず、言語外のコミュニケーションで伝わってしまう関係だからこそ、姿勢が問われてくるのだと思うんです。
そして自分がそういう姿勢が示せないなら、「まあオレの子じゃしょうがないな」と思って黙っていたほうがいいいような気がするんです。
そういった姿勢が出来て初めて、子供が少しだけ心を開いてくれるように思います。
こうしてみると、子育てをしてるんだか、自分が子供に育てられているんだか分かりゃしません。
身の程を知る。
これは子育てにも当てはまる、大切な真理かも知れません。
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