1週間前に書いた『「罰」の効果〜『反省させると犯罪者になります』』というエントリの続きです。
子どもの頃から数えきれないほど数多くの過ちを犯してきた。が、正直言って反省したことなんてあまりない。見つかって叱られたりすると、見つかってしまった運の悪さに腹が立ったり、そもそも先に悪口を言ったアイツがが悪いとか、オレのことを先生や親にチクった相手が悪いとか、オレを叱る先生や親に腹を立てた。我ながら勝手。でもずっとそんな感じだった。
「次は見つからないようにやろう………。」そう思ったことは随分あったけど、二度と同じ過ちを犯すまい……と思ったことはほとんどないのが正直なところ。
ところが……
ところが強く反省し、思い出すと今でも恥じ入ってしまう過ちも幾つかはある。2つほど恥を忍んで書いてみよう。
小学校3年生頃のある夏休み、オレと弟の2人だけで母の実家に1週間ほど泊まったことがあった。母の実家は東京から何時間もかかる田舎で、周囲は見渡す限りの田んぼが広がる。江戸時代から残る数々の古い民家。オレはこの田舎が好きで、夏休みにここに泊まり、蚊帳の中で眠って近所のお寺にお参りに行くと、なんだかタイムスリップでもしたような気分になった。
宿泊中のある朝、ごはんを食べながら足をブラブラせていると、足先にコツンと何かがぶつかった。そっとテーブルの下を見ると、蚊取り線香が容器ごと横倒しになり、灰が床にこぼれていた。自分の家だったらすぐに犯人探しが始まり、親父に怒鳴りつけられるか殴られるパターン。オレは知らん顔を決め込んだ。
しばらくするとおばあちゃんが気付いた。「あら、蚊取り線香が転んじゃったわ」と言うおばあちゃんに、オレは聞かれてもいないのに「知らない!」と目をそらした。おばあちゃんは黙ってテーブルの下に潜り、灰を片付けると「さあ、これでキレイになった」と、何事もなかったかのように食事に戻った。おじいちゃんもその間一言も発せず、静かに朝食を食べていっけ。
バツの悪さで顔が上げられなかった。その後も田舎に行く度にこのことを思い出した。今でも不意に思い出す。何故あのときに正直に謝って片付けを手伝わなかったのだろう……。
アメリカでも
アメリカの移った当初、メアリー先生というお年寄りの尼さんに英語を習っていたことがあった。暖かい先生で、丁寧にオレの発音を直してくれたっけ。
数年後、オレのところに先生から手紙が来た。シンシナティの老人ホームに入居しており、とても寂しいと綴ってあった。先生の優しい表情がすぐに思い浮かんだ。すぐにでも会いにいってあげたかったけど、クルマもなかった。返事を書こうと思ったが、気の効いたことが書けずにグズグズしているうちに日々が流れ、そして出しそびれてしまった。
なぜあの時に、どんな拙い英語でもいいから、なにか出さなかったんだろう? 今でも後悔し続ける過ちのひとつだ。
なぜ反省したんだろう?
もしも蚊取り線香を蹴倒した時に犯人探しをされたなら、多分「あんなところに蚊取り線香があるのが悪い!」って考えて、ずっと反省しなかっただろう。メアリー先生への手紙だって、親に人の道なんて説かれたら、言い訳を考えることに全エネルギーを使っただろう。
でも誰にも咎められないからこそ、本当は間違っていた自分を直視せざるを得なかった。そして今でも脳裏を去らない苦い思い出。反省って、人に咎められるとかえって出来ないのかも知れない。
親や教師は何ができるんだろう?
じゃあ親として、教師として、何をすればいいんだろうか? ただ野放しにすればいいんだろうか? 子供と一緒に頭を下げればいいんだろうか? 叱りつけるのは? 反省文は?
多分、「どうして悪いことをしてしまったのか?」という問いかけを促すことが大事なんだろう。蚊取り線香を蹴飛ばしたことを正直に言えなかったのは怒られるのが怖かったからだし、メアリー先生に返事が書けなかったのは、気の効いた返事を出したいなんて、自分の見栄を優先したからだ。
そういう原因究明をキチンとしてこそ、やっと自分の過ちを胸に刻めるのかもしれない。
罰を与える、ということと原因究明は別に考えるべきなのかも知れない。
どういう罰を、どんなふうに与えるのがいいんだろう?
『反省させると犯罪者になります』を読んで以来、今のところ考えたことはここまで。まだまとまらない。次には、罰の在り方、親が教師が出来ることを、具体的に考えてみたいと思います。
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