それは「時間が沢山ある」ことです。
時間が沢山あるっていることは、やり直しがきくっていうことです。
まだ生きてきた時間も少なくって経験値も低くから、色々とヘマしてしまいます。でも少々ヘマしたって、「まだ若者だからね」って大目に見てもらえること。
何度もやり直しのチャンスがあること。
何度も失敗とやり直しを繰り返してこそ、人と交わることの大切さ、チャレンジ精神、独自のアイデアや自分らしさの発見など、若いうちに学ぶべきことが学べるのではないかと思うんです。
子の心親知らず
「親の心子知らず」などといいますが、「子の心親知らず」もまた真なりです。自分が親になってみると、つい自分と同じような過ちを犯して欲しくなくって、つまらない口出しを色々としてしまいます。そうすることで学習の機会を奪っているというのに。
でも安全に失敗できること、そして失敗から回復する時間があることこそが若者の特権なんですから、大人が、ましては親がそれを奪ってはいけないと思うんです。
自分の子どもが連れてくる友達、異性……、彼らが始める行動。そういったすべてに何か一言言いたくなるものです。でもさまざまな人間と触れ合ってこそ、そこに成長があるわけです。仮に合わない友達とつるんだとしても、それ自体が学習です。
それに自分の子供の選んだ友人や異性を拒絶したり批判/批評するということは、自分の子供を拒絶し、批判/批評していることと同じです。それはすなわち自分の子育てそのものを否定しているのと同じことでしょう。
子供がトラブルに遭遇すると、解決してあげたくなってしまうものです。でも自分が思春期だった頃を思い出すと、別に親からの解決策なんて求めていなかったように思うんです。強いて言えば、気持ちを分かって欲しかった、そっとしておいて欲しかった。そんなふうに思います。
過去のことは忘れてしまう
しかし自分が親になると、そんな簡単なことすら忘れてしまうものです。そしてつまらないことに口を出し、子は親に不信感を抱き、親子の断絶が始まります。
しかしこうした断絶や葛藤も、「家族の成長物語」と呼べるのかもしれません。多くの家庭で、親のほうも弊害に気付き、ドキドキしながらも子供に口を出すのを減らして行くのではないかと思います。やがて子は成人し、時とともに親の気持ちを知り、代わりに若者の気持ちを少しずつ忘れていくのではないでしょうか。
失敗を許さない学校
学校という場所は、そんな親たちよりもずっと失敗に非寛容だったりします。失敗どころか、決められたレールを少したりとも外れることを許してくれません。親のほうでもっと失敗に寛容に接しようと思っても、学校という社会がそれを許してくれないようなところがあります。制服、髪型、夏休みの過ごし方……。ありとあらゆることに口出しし、従順な子はロクになんの失敗も経験せずに大人になってしまうのではないのでしょうか?そしてちょっと枠からはみ出した子はとても息苦しい。そんな学校はとっても多いのではないかと思います。
何を伝えたいのか?
ここで例の体育科のある大阪の高校の話です。問題となっている先生は、生徒を叩くことで一体何を伝えようとしていたのでしょうか? 怠けていると信頼を失う。結果が出ない。そんなことは放っておいても学べることです。叩かないとうまく伝えられないことって何なんでしょうか?
- 自分より力や権力があるものには逆らうな。
- 権力者の顔色に敏感になれ。
- 失敗は極力避けろ。
- 責任のある立場は避けろ。
- 独自の発想なんていらない。
- 目立つことを避けろ。注目されたっていいことない。
こんなところでしょうか?「若者の特権」や「若いうちに学ぶべきこと」と真逆のことばかりだと感じるのは、私だけではないでしょう。
えっ、想像でもの言うなって?
そうでもないんです。私自身も体育科のある高校を卒業しました。大半の先生はいい先生たちでしたが、よく殴る体育教師が何名かいました。そして教育実習生を殴って新聞に載った勇敢な(?)先生もいました。ですので25年ほどたった今も、あまり変わっていない高校があることに驚きを禁じ得ませんでした。
そうそう、暴力教師を通じてひとつだけ大事なことを学びました。
世の中って最低な大人がいるんだな、ってことです。
実に貴重な学びでした。
1 件のコメント:
教育に携わる者としてとっても賛同できる内容でした。
失敗を極度に恐れるようになった子はエネルギーなく従順。
従順だけど難しい問題に出会うとチャレンジする前から諦めるかヒントをほしがる傾向があります。
失敗に寛容な社会を構成するのは
失敗に寛容な大人。
大人である自分が失敗をしながら成長していることが大切だと思い、子どもたちと共に人生を歩んでいます。
まずは自分から。
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