それはどんなにヘンテコリンな物語でも、あるいは平々凡々でもいいんです。
別に社畜でも無職でもニートでもいいんです。男がブラジャーしてても、ロリコンでも一向に構わない。「それがオレですが何か?」ってドヤ顔で言えたもん勝ちなんです。
一生懸命働くお父さんたちが、なぜ「社畜」なんていう侮蔑的な言葉で呼ばれてしまうのか? それは彼らが自分の価値観ではなく、会社の価値観で生きているように見えるからです。長時間労働がダサいわけではない。自分の物語がないことがダサいんです。
別に社畜だって一向に構わないんです。「俺は週5日は会社に魂を売ることに決めたんだ。それが俺の生き方さ!」って開き直ってしまえば、途端にその人は輝いて見えたりします。あるいは「俺のポリシーは長いものに巻かれることだ!」と公務員になってしまうのもいいわけです。ある種の清々しささえ漂ってきます。世の中に言い訳なんかしない俺様だけの物語。そういうものがある人が、なんだか輝いて見えるんです。
本当にイクメンが望まれているのか?
世の中の奥さんたちは、イクメンがいいと言うよりも、子育ても家事は奥さんに任せっきりで、仕事は会社の言われるがままで、自分なりの判断基準を持とうとしない夫が不甲斐ないのじゃないのかと思います。移り変わりの激しい時代に、考えることを放棄したような姿勢。
こんなに価値観の揺れ動く時代に、母親だって大変です。習い事、宿題、進学先……。悩みはつきません。もう世の中に基準なんてないんです。どうやって子育てしていくのか、懸命に話し合って手探りで決めていかなくちゃならないんです。そんな時に仕事に逃げ込む続ける姿勢が情けないんです。
物語を盛る若者たち
そんな「物語」の必要性を誰よりも敏感に察しているのは、おそらく若者たちでしょう。よく揶揄される「意識高い系」も、語るに値する物語が欲しいのじゃないかと思います。別に有名人の講演に行って一緒に写真に写っても自分が偉くなるわけではありません。が、世界を旅し、有名人と写真に写り、SNSをてんこ盛りにします。なんとか自分だけのオリジナルな物語が欲しいのでしょう。
しかし、物語とはあくまで「今の自分」を語るものであって、わざわざ盛って語るものではありません。物語を持つとは「そのままの自分」を「これが俺だっ!」って開き直れるということなのです。
仮にどんなに平凡な人生でも、「私は平凡ですがなにか?」って言えること。そういう開き直りこそが、「自分なりの価値観」であり、自分なりの物語なのです。すると、そこを基準に、結婚でも就職でも子育てでも判断して行くことができます。
そう、「自分なりの物語」とは、そのまんま「自分なりのコンパス」なんです。揺れ動く時代だからこそ、必要なんです。
2 件のコメント:
「自分」について日本の学校では探求しませんが、海外のインターナショナル・スクールでは毎年学期はじめに、自分の得意分野は何か、キーワードでコラージを作ったりしています。日本の学校は同じ感が大事だから自分をなくすことに慣れ過ぎのような気がします。私が以前勤務していた会社では「自分」をよく知る人が活躍していました。「あの仕事はあの人にピッタリ」と言われている人程結果を出していました。
「自分」について日本の学校では探求しませんが、海外のインターナショナル・スクールでは毎年学期はじめに、自分の得意分野は何か、キーワードでコラージを作ったりしています。日本の学校は同じ感が大事だから自分をなくすことに慣れ過ぎのような気がします。私が以前勤務していた会社では「自分」をよく知る人が活躍していました。「あの仕事はあの人にピッタリ」と言われている人程結果を出していました。
コメントを投稿